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2017年04月05日

地域医療が・・・

今日からマスク着用で楽になりました。

昨日、丸瀬布厚生病院のベッド存続の丸瀬布と白滝地域住民の嘆願書も持参して考える会の代表が厚生連に行っているはずですが、どうなったことでしょう?

結果はどうあれ、ある方がFoosbookに書かれていたことを紹介します。

今日は湧別町教育委員会を訪ね、「寿合唱」の年間計画と新曲の楽譜を届けに行ってきました。
帰路、上湧別市街に入った時、いつも横目で見て通り過ぎる「庄田萬里翁」さんの像を、近くまで行ってジックリと眺めてきました。
長い文章になりますが、時間のある方、お読みください。

現在の像は、石像になっていますが、昭和12年9月に建立されたときは銅像だったそうです。確かに説明書きには『銅像』の文字がある。近くに住む男性が仰るには「昭和13年から始まった日華事変などの戦争中に供出されたために、後に石像に建て替えられたもの」だそうです。命を貴ぶ萬里先生と命を無駄にする戦争のギャップを考えさせられた。
萬里先生の生涯を、つい最近、湧別町の町民劇場で演じたばかり。先ほどの男性が付け加えて教えてくださった言葉:「萬里先生は、白滝、佐呂間、遠くは雄武まで、馬に乗って診察に出かけたと聞いています。」車でも大変な距離です。
明治30年に移住し、北紋地域の医療に携わった。その以前、明治18年に制定された「屯田兵条例」により、「平常は給与の家屋に居住し、開墾の事に従わしめ、家族と一緒に生活しながら軍事防衛に当たった。農業を営み、開拓を進めた。」萬里先生は、屯田兵の皆さんや家族のために医療に従事し、農村医学の礎を築いた。
他の湧別村に関する資料によると、「庄田満里:中隊本部の看護卒として医務室に勤務。後備役になると兵村に医師がいなくなることから、明治34年東京慈恵医学院に派遣され医師免許を取得し帰村。北湧病院の医師として勤務。村民から『庄田先生に診療を受けて死にたい』と言われるほどに慕われた。」とのことです。

石像の前には、「久美愛病院の跡」の石碑が建っている。説明にはこう書いてあった。『上湧別村産業組合長熊沢助三郎が主唱し、農民医療のため近隣産業組合と糾合し、「北紋医療利用組合連合会」を結成。(紋別郡下14町村)
昭和14年9月、この地に北海道内では最初の農民組織による「久美愛病院」を開設した。<後の、上湧別厚生病院の前身となった>
何と考えられたネーミングだろうか!
「Eternal Beautiful Love!!」
萬里先生が開院に多大な功労があったので顧問に就任したそうです。
上湧別町のHPによると、経営主体は、当初、上記の北紋医連、続いて北聯、北海道農業会、そして北海道厚生農業協同組合連合会、さらには昭和23年8月に上湧別厚生病院となり、昭和36年には遠軽厚生病院となったそうです。いかに多くの人たちの「協同」の力で成り立ったものか!
我々はもう一度、先人の苦労と努力を学ばねばなりません。

しかし、その後、全道に広がり、遠軽と合併する前の丸瀬布町が建設した厚生病院は、来年4月から2階と3階を封鎖して無床の「診療所」に移行するという。庄田萬里先生が尽力し、地域の「久美愛」(組合)の人たちが目指した医療体制をどう考えているのだろうか?
萬里先生は遠軽や丸瀬布の方を見て立っていらっしゃった。
きっと嘆いておられることでしょう。
だが、地域住民は今、立ち上がっている。
私にもできることをやっていきたい。
このFBによるメッセージも、その一つだ。
車を止めて、ゆっくり仰いだ先生の御顔が瞼に浮かんでいる。


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